2010年4月24日

何者かになりたい気持ち/遠くへ届かせたい言葉

ひとつ前の記事にも書きましたが、
「かんたん短歌blog」を休止中です。

金曜日は枡野浩一短歌塾に集中する日と決めていて、
しかし昨夜はなにも手につかずに眠ってしまいました。
塾生のみなさん、ごめんなさい。
これから朝まで、続きをやるつもりです。

気持ちを整理するために、
枡野浩一短歌塾の皆さんにも、
「かんたん短歌blog」投稿者の皆さんにも、
そうでない皆さんにも、
お伝えしたいことをひとつ書きます。
ちょっとだけおつきあいください。

昔、
あるウェブサイトがありました。
そのサイトの作り手は、
表現者になりたいらしく、
自分は表現者になります、
みたいな宣言が堂々と書いてありました。

才能のない人だとは思いませんでした。

でも、
私はそこに溢れ過ぎている
「表現者になりたい気持ち」に、
危険なものを感じていました。

短歌を詠みたい、
小説を書きたい、
といった気持ちはわかるんです。

でも、
歌人になりたい、
小説家になりたい、
という気持ちがあまりに先立つと、
その人は結局、
何者にもなれないと思う。

もしかしたら天才で、
そんな心持ちで何者かになれてしまう人も、
たまにはいるかもしれません。

でも私自身は全然そういう天才ではなく、
単に短歌を詠みたくて詠み、
作品が大量にうまれてしまってから、
「これを世の人々に届けたい!
届けないと次に進めない!」
と考えて色々と行動していったのです。

だから、
「何者かになりたい気持ち」が、
そこまで前面に出てしまう人のことが、
私にはわかりませんでした。

ひとつ前の記事にも書いたように、
枡野浩一短歌塾は基本、
申し込んでお金を払えばだれでも入塾できます。

でも、
ごくまれに、
入塾をおすすめしないこともあります。

たとえば、
その歌人がある程度もう完成していて、
枡野浩一に指導されてもしかたない、
みたいな感じになってる場合とか……。

第二期に関しては、
ひとりだけ、
入塾をおすすめしない旨のメールを
出した人がいました。

ご本人が、
短歌をあきらめたがっているようだったので、
「思いきり頑張ってみて、あきらめること」
をお手伝いするくらいなら、
できるかもしれないと思っていたけれど。

以下が、その全文です。

 あなたのお名前はよく覚えてますよ。

 あなたはあの頃、
 短歌をつくりたいというより、
 何者かになりたい、
 という気持ちのほうが先にあった感じでした。

 表現は、
 そういうふうにして始めたら、
 必ず行き詰まるのです。

 短歌、
 きっと投稿してくれたら、
 私はそこそこ選ぶと思うけど、
 あなたが歌人として凄いかどうかは微妙。

 むろん、ほかの塾生だって、みんな未知数です。

 短歌塾に何を期待しているかによりますが、
 たしかに、
 「短歌をあきらめよう」
 と思うきっかけにはなるかもしれません。

 枡野浩一

私のそのメッセージの真意は、
ご本人には届かなかったのかもしれません。

私は、
自らの気持ちを偽りたい人にはいつも、
何も言えなくなってしまいます。

そんな私と接することで、
傷ついてしまった人がいたら、
ごめんなさい。

ただ、
表現するということは、
わざわざ傷つきに行く、
というようなことだと思っています。

枡野浩一短歌塾の講義で以前書いた一文を、
以下に転載して、
この記事を終わりたいと思います。

 短歌なんかに見向きもしない人が、
 それが短歌だと気づきもしないで、
 ☆マークをつけたくなるような一首。

 それだけを私はめざしている。

 それは「面白い」ということだ。
 それは「必要だ」ということだ。

 実用性のない詩歌だってある。
 むしろ詩歌に実用性は期待されていない。

 でも書くことで癒される程度のかなしみなら、
 私に見せないで欲しいと思う。

 書いて、届いて、波紋を呼んで、
 読み手の歩みに影響を与えるような、
 そんな一首が書けないと私は満足できない。

 とても傲慢な望みだ。
 傲慢であることを自覚していなければ詠めない。

 でもその傲慢さは、
  人はみな私のことが大好きで私の歌を聴きたいはずだ
 みたいな地点にいることの傲慢さとは、
 まったくちがうものだと思っている。